2件のコメント

  1. 佐藤裕子

    律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
    律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。

    信仰は神様の確かさ、神様が約束を守るのです

    このことがスゥ〜っと腹落ちした。神さまの確かさってなんだろう?ってずっと思っていた。でも、私は神さまがやるんだし…と思っている。この丸投げ感が私にとっては信仰なんだと思う。最近、自分が存在してもしてなくてもどっちでも良いや。と思う時がある。いや、それ以上に生きていたくないと頭をよぎることが多々ある。それはどーなの?と思っていたけど。ソコも神さまがやるんだからイイんだ。それよりも、今日も生きていると言う方にフォーカスして感謝することなんだ。だって、神さまにとっては私を亡き者にするのは簡単なのだから。今、ヨブ記を読んでいて。ヨブの辛さがよくわかる。でも、ヨブに比べたら私なんてなんてことないんだよなぁとも思う。神さまによって許されているから存在している事を実感します。
    愛する天のお父様。主よ。あなたを褒め讃えます。
    あなたの愛の中で許されて生きていることを実感できる喜びをありがとうございます
    感謝して精一杯生きます。イエス・キリストのお名前でお祈りします。アーメン。

    • 神様の恵みの中に歩んでいることが素晴らしいです。
      あ、私も神様に丸投げなのかもしれないと思いました。
      祈っています。

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