信仰生活
Scripture
マルコの福音書 8章34~38節
それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。
だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」
Observation
イエス様に従って行く時には、自分を捨てること、自分の十字架を負って従う必要があります。今の時代、姦淫と罪の時代にイエス様のこととイエス様のことばを恥じることなく、生きることが必要です。つまり、自分を中心に考えるのではなく、神様との関係を重要視する生き方をして、従って行く必要があるのです。
Application
3月になりました。祈りの時間を15日までにしています。当初から15日でしたが、3月1日からに変更しようと思っていましたが、自分の状態を見ると当初の方がいいと思いました。それまでは、福音宣教のために神様との関係を強めていきたいと願っています。
今日は改めて自分を捨てることについて考えさせられました。この1ヶ月間もかなり自分を見つめることができました。一番は、自分の力を頼りにしようとしていることでした。自分の考え、自分の言動でした。それを捨てることにテストがあり、その都度失敗し、悔い改め、祈り、聖霊の導きで歩む事の素晴らしさを味あわせていただきました。
そのような中で人と話しているときに、イエス様の話にならないことがありました。否認しているわけではないですが、言えないって「何っ」て思いました。今日の聖書箇所にあるように「わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」となるのです。恥じる、そこまでではないがそのようになってしまう自分がいるのです。
神様の憐れみはここに表れているなぁと思ったのが、牧師という肩書きです。これがあるからこそ、イエス様の福音を語り、祈ることができる特権を与えられているのです。実はビジネスの時にこの牧師と言われるのが、あまり好きではありませんでした。この時ほど恥じてたように思っていたことはないと思います。罪人の頭であり、罪多き存在なのです。そんな自分だからこそ、牧師として働きをするように言われているのは、神様の憐れみでしかないのです。
今の時代、姦淫と罪の時代です。それが顕著に分かっています。この世の戦いは霊的な戦いです。そして終末の時代だからこそ、イエス様の福音が必要であり、語り続ける必要があるのです。
イエス様を恥じることなく、大胆に語っていくためにも聖霊の力を持って歩んで行きたいと願わされています。
Prayer
天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。いつもあなたが愛してくださっていることに感謝します。恥じるような生き方をした時もありましたが、赦して下さり、福音を語るように導いて下さっていることに感謝します。どうぞ、いつもあなたのことを証し、率直に語ることができるように導いて下さい。
今日も一人一人の歩みが祝福されますように祈ります。
あなたの愛に心から感謝します。
イエス様のお名前でお祈りします。 アーメン!