信仰生活
Scripture
マルコの福音書 7章5~8節
パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』
あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」
Observation
今日の聖書かを読みながら、弟子たちに汚れた霊を制する権威を与えられて、実際に行っていることが記されています。その中で偽善者についての話がここに記されています。聖霊の働きと悪霊の働きを見きわめることは、実を見ないとわかりません。そうでないと見きわめることができないのです。なぜなら、ある意味同じに見えるからです。その実(言動)が神の命令に従っているのか、人や言い伝えを間にいれて従っているのかで見きわめることができるのです。神様は一人一人に語られ、キリストの身体として役割が違い一致が生まれるのです。
Application
ここでは偽善者についてイザヤが預言していることを引用しています。イザヤ書29章13節『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』
私たちは人や物を絶対にしたくなるのです。どういうことかというと、見えるものを通して安心したいのです。昨日こんなことがありました。私は今月の研修がキャンセルになりましたので、収入がなくなりました。その分、祈りの時間に当てて平安を得ています。しかし、どこかで不安になるのです。昨日、ある人と話していると「ここの宝くじ売場から年末で10億、ビックで8億出たんだよ。マサさん買わない?」と言われたのです。宝くじは買わないと決めたときから買ってないのですが、心が揺らぎました。
「当たるかは分からないから、これは自分の力でどうすることもできないから、買ってもいいんじゃないの」という甘い誘惑の言葉でてきました。そして帰りに買って帰ろうかなぁと思った瞬間に、神様から「あなたはわたし以外で安心を買おうとしているよね」と言われたのです。「あっ」やっぱり神様からのテストだったんだ、悔い改めて祈り、神様にある平安と言うことの意味を教えていただきました。
『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』
さて、パリサイ人や律法学者はどうなのでしょうか。一生懸命厳格に行動し、多くの知識を得ていました。霊的なリーダーとして尊敬されるように生き、人に認められるように振る舞っていました。注目が集まることが好きで、自分の教えを守らせることに喜びをもっていました。政治や経済でも霊的リーダーとして民を支配していたのです。この人たちが大切にしていたことは自分ですよね。神様ではなく自分です。それは私も同じように自分を神のようにしたいという気持ちになるのです。自分の欠けという願望を補い、自分を自分の力で完全にしたいのです。それは自分が神のようになろうとする罪です。そのあらわれとして自分は正しい、相手は間違っているという否定的な人生を歩んでいるのです。
その生き方にいると、満たされずにまだだまだだと言う生き方をするのです。これは成長でもなく、ポジティブでもありません。この先にあるのは、パリサイ人や律法学者のようになることです。口(言葉)では神を敬っているけれども、実際には人(自分)を中心にしているのです。これは私の罪のあらわれなのです。私もパリサイ人や律法学者も同様に、その知識によって、厳格な行動によって、自分を神のようにしようとするのです。
私がどれだけ聖書を読んで、聖書の言葉を引用できても、どれだけ教会で奉仕していても、預言や奇跡をを行っても、自分が神のようになりたかったという罪の結果は、口先で敬うだけなのです。心は神様から遠く離れているのです。
プロテスタントの礼拝式には順序があります。これはどこから来ているのでしょうか。もしかすると、これも人の戒めから来ているのではないでしょうか。こうしなければ、礼拝ではないと・・・教会にもたくさん(人の数ほど)の戒めがあるのではないでしょうか。ですから、口先だけになり、心が遠く離れてしまっているのではないでしょうか。
神様から遠く離れているということは、神様の臨在がそこにないと言うことです。だから、神様の戒めを守ることができません。神様の戒めは重荷になることはないのに、重荷になっているとしたら・・・神様の臨在から遠く離れて、独りよがり、人間の戒めとなっているのです。デボーションのことでよく言われます。デボーションがいいから一緒に行いましょう。というと、それは違うとか、強制されるのはどうかと思うと言われるのです。
私もデボーションが苦手でした。聖書を読むだけなら、高校1年生から行っています。祈りも苦手でした。人前で祈ることはスキではありませんでした。最初は重荷のように感じるのですが、実は重荷ではなく、神様との会話であるからこそ楽しいのです。病気の時はお休みします。しなければならいではないからです。忙しいときは前日に読んだりもします。したいから行っているのです。
神様に愛されているから、今日も神様の御声を聖書から聞きたいし、神様の臨在の中で歩みたいのです。学んだから、これだけしているからではなく、ただ聖霊の満たしの中で、神様の召命を実現するために、自分を神に合わせるように生きることをしたいのです。なぜなら、自分の力では失敗をし、恐れ、神様を否定していくからです。
時が満ちて、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。神の国が近づいたからこそ、イエス様が考えたように考え、語り、行動するためにも、今日も聖霊に満たされて、祈りつつ歩んでいきます。
Prayer
天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。私の心があなたから離れないように、いつも聖霊様を求めて歩む事ができるように助けて下さい。偽善者のように思えるときもありますが、そのときは神様から離れているときが多いと教えられました。いつもあなたを中心に、あなたと共に歩む生き方をすることが出来るように助けて下さい。今日もイエス様が考えるように考え、イエス様が語るように語り、イエス様が行動するように行動できるように導いてください。そして、あなたからの聖霊の賜物を活かして、多くの人たちにあなたの愛を伝えていくことができるように助けて下さい。
あなたの愛に心から感謝します。
イエス様のお名前でお祈りします。 アーメン!