信仰生活
Scripture
マルコの福音書 14章70~72節
すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」
するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。
するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。
Observation
申命記では神様の律法である十戒が記されています。それを守ることが私たちが幸せで長生きする秘訣です。また、心を尽くして神様を愛することの重要性が語られていました。そのような中で、詩篇43篇5節の言葉が響きました。
「私のたましいよ、どうしてそんなに気落ちしてふさぎ込むのか。
神に何もかも任せなさい。
きっとすばらしい助けの手が差し伸べられ、感謝の思いに満たされる。
神は再び、私をほほえませてくださる。
このお方こそ、私の神。」
この感情の起伏が私の中にもあるからです。そして、今日の聖書箇所として選びましたマルコの福音書のペテロの姿です。どんなことがあってもついていきますと誓いを立てたにも関わらず、裏切ってしまうペテロの姿がここにあるのです。
Application
今日はある意味、神様を愛することの難しさを覚えた箇所でした。十戒を守ること、心を尽くして神様を愛することが、私の幸せであるにも関わらず、そこから離れてしまう自分、守ろうとしない自分がいるのです。
詩篇でもたましいが揺れ動く姿が記されています。私も毎日の祈りが聞かれていないと一喜一憂するのです。それでも神様に頼る忍耐を学びつつ、それが今の私に必要な練られた品性を身に着けるために必要であることを思わされるのです。それによって、神様の愛と恵み、神様に対する感謝を見いだすのです。
ペテロもイエス様から離れてしまった瞬間から、イエス様を否定していくのです。これが私の本来の姿であると思わされたのです。イエス様を否定していく、律法を守れない自分とも重なってくるのです。人を恐れたり、状況に合わせようとしたり、自分の弱さが現れているのです。
このペテロが変わるのが、使徒の働きにある聖霊に満たされてからなのです。
毎日のようにこれしかないと思わされているのが、神様の臨在であり、神様の愛に包まれることであり、神の国が近づいたことであり、聖霊の満たしの中にあって変わるのです。
そして今日の聖書箇所では、聖餐式の原型が記されていました。
マルコの福音書 14章22~25節
「さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだです。』
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。『これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。』
この箇所と教会で聖餐式を守ることを通して、イエス様の十字架の死によって私たちが神の子とされ、永遠のいのちを得ていることを想い起こすことができるのです。このことは、日々の食卓繰り返しイエス様の愛と神様の恵みの素晴らしさを想い起こすことができれば幸いです。
神様を愛することは、神様の命じられたことを行うのです。行うためには祈り、そして実行することです。愛することは難しいからこそ、イエス様と共にいること、聖霊の力が必要なのです。ですから、今以上に祈る必要があることを教えられました。それは神様を愛するためですし、神様に愛されているからこそ祈り続けるのです。
シェアリング・チャーチを建て上げていくためにも、神様に命じられていることを守り、いつも神様を見上げ、イエス様ならどのようにするかを考え、語り、行動していけるように、聖霊の力によって歩みたいと今日も思わされました。
Prayer
天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。
神様を愛することの難しさをダビデやペテロを通して学びました。その中で、神様の愛を確認する聖餐式があり、あなたを想い起こすことができることを感謝します。どうぞ、あなたの命じられていることを実行するためにも祈り、聖霊の力によって導いて下さい。あなたに愛されていることを感謝いたします。神の子としてくださり、永遠のいのちを与えてくださっていることに心から感謝します。
イエス様のお名前でお祈りします。 アーメン!