信仰生活
Scripture
マルコの福音書 10章42~45節
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
Observation
今日の箇所では、支配者と認められている者たちは、横暴に振る舞い、人々に権力振るっていることに対して、偉くなりたいと思う者は、皆に仕える物になりなさい。と言われています。先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。イエス様自身も仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるためにきたのです。ここに福音のメッセージがあるのです。
Application
「自分は支配者じゃない」と言えるのか・・・そんなことを思うことが昨日起こりました。私はなぜイライラしたり、怒り出すのかを考えさせられたのです。
昨日は車を運転していました。ある車がウインカーも出さずに車間距離の間に入ってきました(ここでイラっときてます)。そして元町の交差点で石川町へ右折しようとしたのですが、ウインカーを出さずにとまったのです。右折レーンがあるわけではないのです。若干広くなっているので、左からすり抜けていきました。そのときカチンときたのです。その瞬間に祈ることをしました(ちょっとは成長したなぁと思うのですが)。このような心を変えて下さいと祈りました。
そして、今日の御言葉だったのです。
私は支配しようとしているから、イラってくるし、怒り出すのだと!相手をコントロールしたいという現れなのだと教えられました。だからこそ、私は仕えることが必要であり、しもべとなって仕える必要があるのだと教えられたのです。
なぜなら、イエス様ご自身が仕えるものとなり、贖いの代価として十字架にかかって死んでくださったからです。その贖いがない限り、私たちは神様の義に対して裁かれ、永遠の滅びに向かうしかなかったのです。
そのような私(支配者として神のようになろうとしている罪多き私)が、イエス様を罪からの救い主であることを信じるだけで義と認められ、口で告白して救われると約束されているのです。そして救われ、義とされている者(愛され、赦され、価値あるとされ、正しいとされている者)からこそ、イエス様のように仕えることができるのです。
自分で自分を満たすために仕えるのはなく、神様の愛によってすでに満たされているからこそ仕えていくのです。
これからシェアリング・チャーチを進めていく中で、神様の前に共に礼拝をささげていくということで神様に仕えることができます。また宣教の働きとして聖霊の賜物を持って多くの人たちに仕えていくことができます。それが本当にできるのは、神様との関係がしっかり形成されていく必要があるので、デボーションを通して、神様の御心に自分が変えられるように祈り求めていきたいです。
Prayer
天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。今日も御言葉をありがとうございます。私自身が支配者のようになり、横暴で権力を振るう者です。ただ、あなたの恵みによって救われた者として、愛されている者として、正しい者とされ、価値ある者とされている者として、聖霊の賜物を持って仕えていくことができるように助けて下さい。今日イラッときたり、カチンとくるときにもすぐに心を変えることができるように助けて下さい。
今日もあなたの愛の中を歩む事ができますように助けて下さい。
あなたの愛に心から感謝します。
イエス様のお名前でお祈りします。 アーメン!