信仰生活
Scripture
コリント人への手紙 第一 7章18~19節
召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。
リビングバイブル訳
たとえば、クリスチャンになる前にユダヤ教の割礼(男子が生まれて八日目に、その性器の包皮を切り取る儀式)を受けた人は、そのことを気にしてはいけません。また割礼を受けていない人は、今さら割礼を受けるべきではありません。 クリスチャンは、割礼を受けているかどうかで、違いはないからです。真に神を喜ばせ、神の戒めを守っているかどうかが重要なのです。
Observation
律法を守ることに囚われることなく、真に神を喜ばせ、神の戒めを守っているかが重要であると教えられているのです。
Application
昨日は相手の人への対応は、守られてイライラしなかったのですが、聞いて欲しいと思った人を困らせることを言ってしまいました。昨日のデボーションで語られていたことを思い出し、神様に伺うこと、祈ること、すべてのことについて感謝する事をもっとしていきたいと願いました。
今日の御言葉で教えられたことは、重要なことは神の命令を守ることです。と言うことでした。
私たちは自分の基準で、これをした方がいいとか、これはしない方がいいと言います。その方法を守るから聖書的だとか、信仰的だという基準を持ちやすいです。
私も基準を持っています。行いによる義を求めようとすることに対してはNOです。むしろ、信仰による義を求めています。自分の欠けているところを埋めるためではなく、自分の本来持っているものを神様の愛によって認める、受け入れるところから始まるのです。
そうしないと、今日の聖書箇所のような割礼を受けることにこだわったりするのです。大切なことは、真に神を喜ばせ、神の戒めを守っているかどうかが重要なのです。
教会は互いに愛し合うところだといいます。互いに交わり会いましょうと言います。そしてお互いに普通の会話をして、カゲで裁きあうのです。そこには愛はないのです。なぜなら、それは神様がいないからです。
教会の交わりは聖餐式に代表されています。昨日はウェインコデイロ先生の聖餐式のメッセージを聞きました。そして聖餐式を行いました。イエス様に戻るために聖餐式を行うのです。イエス様を思い出し、イエス様とともに歩むことです。
デボーションも同じです。イエス様を思い出し、イエス様とともに歩むためです。イエス様の十字架の愛があるから、そこにある交わりなのです。そこに喜びと感謝が溢れるのです。今日もイエス様が考えるように考え、語るように語り、行動するように行動していけるように祈りつつ歩んで行きます。今日も怒ったらすぐにイエス様に戻るときだと思って行動しよう!
Prayer
天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。
いつもあなたのことを忘れる時に落ち込み、イラつき、怒りに満ちます。そうではなく、いつもあなたのことを思い出すように、助けて下さい。聖霊様が共にいてくださる喜びをもって歩む事ができるように助けて下さい。
今日の夜の聖書の勉強会も祝福して下さい。
イエス様のお名前でお祈りします。 アーメン!