今日のデボーション聖書箇所
信仰生活
Scripture
コリント人への手紙 第二 12章7~10節
その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
Observation
弱いところに神様が働かれるので、私たちは強くなることを教えられました。
Application
今日の御言葉は、イエス様を信じる人たちにとって慰めであり、力強いメッセージになると思っています。
理由は、弱いところがむしろプラスであると言うことです。私は左腕が不自由であり、左側の反応が遅いのです。だからこそ、悩みましたし、人に馬鹿にされることもありました。特に茶碗がちゃんと持てないことを、めちゃくちゃ注意されたときにはがっかりしました。小さいときは左の人差し指が茶碗の中に入っていたときもあるので、すごい劣等感でしたし、それを理解されないことに対する不快感がありました。そう、つまり孤独になっていたのです。
中学3年生の時にイエス様を信じてからは、その弱さがあるから神様に愛され、神様(天主)がともにいてくださることを自覚できるようになりました。神様から離れても立ち帰ることができるのは、この弱さがあったからだと確信していますし、今もそうだと信じています。本当に孤独感に襲われた時もありました。しかし、その時にイエス様が本当のことを知っているし、イエス様が弁護してくださるし、イエス様が共にいてくださると言うことを確信できたのです。
弱さを受け入れることで、神様に愛されていることを受け入れることができました。弱さを認めることと、受け入れることが違うようにも感じています。私が義タイプだからかも知れませんが、それは否定的と肯定的に分かれると思います。認めるのは否定から来ているように感じています。受け入れるのは肯定からだと思います。
弱さを認めていることで自分を否定している人が多いように感じています。弱さを受け入れている人は、神様の愛によって自分を肯定している人のように感じます。ですから、神の愛を認めている人も実は否定的に捉えている可能性があります。そうなると、行動で正しさを証明しようとするのです。私もそうであったから、そのように今日は感じました。
神様はいつも弱さに寄り添って下さいます。そして、ある時は「恐れるな」と声をかけて下さったり、共に歩んでいて下さることを思い出させて下さいます。神ご自身が私の弱さを受け入れて、愛して下さっているからこそ、私も孤独から解放され、弱さを誇り、神様が働かれていることを伝えるのです。
弱さは私たちに神様に帰るきっかけを与えてくださいます。だからこそ、主を賛美し、御名をあがめていくのです。なぜなら、神様(天主)ご自身が、救いのみ業を行っていることを見ることが出来るからです。
今日もあなたの愛に生き、あなたと共に歩み、あなたの素晴らしさを証していくことができるように聖霊の力によって歩む事ができるように祈りつつ、歩んで行きます。
Prayer
天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。
今日も御言葉をありがとうございます。弱さに完全に働かれるあなたの愛に感謝します。もっと自分の弱さを受け入れ、あなたが働きやすいように変わっていくことができるように導いて下さい。
いつもあなたの愛に感謝しています。私たちの救い主イエスキリストの御名でお祈りします。
アーメン!
小間物谷直子
アーメン👍