信仰生活
Scripture
コリント人への手紙 第一 1章17~18節
キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
コリント人への手紙 第一 1章23~24節
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
Observation
福音は、ことばの知恵によらずに宣べ伝えられるためでした。それが十字架のことばであり、神の力であることを宣べ伝えるのです。
Application
今日は東京キリスト教短期大学の聴講をしている時に与えられた御言葉を選びました。(実は娘もここを選んでいます)
私は勉強ができる人ではないので、ただ単純に信じているような者でした。ですから、ことばの知恵によらず宣べ伝えるためでした。という御言葉は私が神学校に入るのに必要な御言葉でした。
大自然をみて信じた人ですから、聖書を読んで信じたのではないのです。
そもそも十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのに、一般的にいう知恵が使えるのかを考えたら無理ですよね。エビデンスもないですよ。学問の世界で、十字架にかかって死んで三日目によみがえったと信じることは出来ないですよね。子どもでさえ馬鹿にすることが出来るぐらい、愚かなことではないでしょうか。死んで三日目によみがえったイエス様を私は信じています。って子どもでもそれはないというのではないでしょうか?
つまり、一般的な常識を持っていると、神の力、神の知恵を使うことができるなくなるかです。しかし、宣教は聖霊の力であり、私たちを通して御霊の賜物が働くのです。
ですから、誰でもキリストを宣べ伝えることができるのです。
だからこそ、私ももう一度牧師としての働きに戻ることができました。暗証聖句は苦手だし、人の名前は覚えないし、でもイエス様の愛は語ることができるのです。だって神様に愛されているって実感しているからです。
今日は以前から約束していたセミナーを行います。神様に愛されている者として、愛の関わり方について話をさせていただきます。
Prayer
天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。
今日も御言葉をありがとうございます。自分が献身していく時に励ましになり、決意を固めた御言葉でした。あなたのことを知的に語ろうとかではなく、ただ十字架にかかったイエス様を伝えることができるように助けて下さい。
聖霊の力によって満たし、守り、導いて下さい。
イエス様のお名前でお祈りします。 アーメン!