信仰生活
Scripture
申命記 8章1~6節
私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行わなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。
あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。
あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。
Observation
申命記では神様の命じる命令を守り行うことの意味がそこに記されていました。神様が40年の間、荒野で歩ませられた全行程を覚えることで、神が共に歩んでくださることの素晴らしさ、その力強さを知ることができるのです。人がパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべてのもので生きることを私がハッキリと分かるためにも全行程を覚える必要があるのです。
そしてそれは、神様が我が子を訓練するように、私たちを訓練されるのです。ある意味、マルコの福音書のイエス様の十字架の死も同様に思うのです。この杯を取り除いて欲しいと願ったイエス様がいました。しかし、そこを越えてイエス様は十字架にかかり死んで葬られるのです。神様から離れることの不安よりも、神様が復活を通して共に歩んで下さることを信じるように、私たちも訓練されていくのです。
神様と共に生きるためにも、主の命令を守って、私たちに与えられている道を歩み、主を恐れることで訓練され、自分に死んで神様と共に歩むのです。
Application
洗礼を受けたのが1973年12月でしたから47年の歳月が経ちました。未だに訓練中です。この47年間の全行程を覚える時に、神様と共に歩んでいるのですが、私が神様から離れていたときや、神様の注意を無視して歩んでいたときの方が多いことに気付くのです。しかし、それでも神様のあわれみによって共に歩んで下さっていることに感謝しかないのです。
主が動くまでは動かないことを決めていますが、なかなかこれが大変です。すぐに動きたくなるのです。ちょっと動いては、立ち止まらせていただいています。実は、止まっていると分かることがあります。それは客観的にもみることができるからです。
マルコの福音書 15章37~39節では
「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。『この方は本当に神の子であった。』」
「この方は本当に神の子であった。」とイエス様の十字架の正面にいた百人隊長は語るのです。私にとっても、2011年以来かも知れません。これだけ、祈りの時を持ったことで、神様に重荷を下ろすことをさせていただいています。神様に養われ続けているのです。実際にこの47年を振り返っても、飢えることなく、食料は与えられてきました。必要なときに、必要なものが与えられてきました。
そしてイエス様が私の救い主であることを実感し、感謝しかないのです。このような罪人の救いのために、十字架にかかって死んで下さり、黄泉にくだり、3日目のよみがえってくださったのです。それを信じる者はすべて義と認められ、口で告白して救われるのです。本当に感謝でしかないのです。
だからこそ、今日の御言葉である「主を恐れ、主の命じられていることに聞き従っていく必要がある」と今日も思わされました。それは重荷にはならないのです。神様に愛されていることが分かるからです。
いよいよ、シェアリング・チャーチをオープンにしようと考えています。もちろん、神様が合図が必要ですが、いつも神様に命じられていることを守り、いつも神様を見上げ、イエス様ならどのようにするかを考え、語り、行動していけるように、聖霊の力によって歩みたいと今日も思わされました。
Prayer
天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。
神様、今日はいままで生かされてきた過程を振り返ることができました。感謝いたします。あなたは変わらず愛を持って関わってくださり、心から感謝します。今日もあなたの愛を受け取りつつ歩んで行くことができるように助けて下さい。
イエス様のお名前でお祈りします。 アーメン!