信仰生活
Scripture
ガラテヤ人への手紙 2章16節
しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
Observation
パウロは律法を厳格に守っていた人でした。それ故に、イエスキリストを信じる者を迫害するほどでした。律法(間違いのない正しい生き方)をすることで、神様にも人にも義と認められると生きてきたパウロでした。
律法が守れないことは罪であり、私たちも律法を守れなければ罪人なのです。
そのパウロがイエスキリストを信じる信仰によって義と認められると知って、イエスキリストを罪からの救い主として信じました。律法では義とされることはないのです。
義とは正しいとされることであり、裁判で言う勝訴となったことです。義と認められることは「神様に赦されている、愛されている、価値ある者」と認められていることが含まれていますが、神の前に的を得た生き方をしたと認められるのです。
罪は的をはずれるという意味がありますから、的を得た生き方が義と認められることであり、イエスキリストを信じる信仰によって義とされ、口で告白して救われるのです。
これがキリストを信じる基礎となるのです。
Application
今日は改めて、信仰義認でした。しかし、これはとても大切な事です。このことが頭では分かっても、行動ではできない自分がいるのです。
なぜなら、私の内側には2つの考え方があるからです。一つは、自分の欠けを自分で埋めようとする生き方です。それが律法による生き方であって、自分で自分を正しいとする生き方です。それを追い求めていくと実存的で、罪と戦っている自分が美しい、格好いいと自分に酔いしれていくのです。自己中心もいいところになるのです。
そして、できていない人を裁いたり、自分が出来ていないときはできている人を裁いたりします。裁かないにしても人を教えようとしたり、相手をコントロールしようとするのです。
そんな自分がいるのです。
もう一つの自分は、欠けを埋めることができないので、神様によって埋めてもらえるという愛に生きることであり、神様の恵みに生きる生き方です。
自分の罪(欠け)を自分でどうにかしようとしても、どうにもならないので罪を贖うために十字架にかかって死んで下さったイエス様を信じることで義と認められるのです。これによって、自由と解放、愛と喜び、赦しと癒やし、信頼と徳を得ていきます。それは、神様の恵みとイエス様の愛が素晴らしいからです。
この恵みに生きるからこそ、賛美と祈りと礼拝をし、毎日のようにデボーションをすることが出来るのです。なぜなら、神様に生かされている喜びで行っているからです。
シェアリング・チャーチをはじめるためにも、この信仰によって義と認められることを中心に、それぞれの賜物が活かされ、喜びの中で歩めるようにしていきたいと思わされました。
Prayer
天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。
今日も御言葉をありがとうございます。今必要な義認について示して下さり、感謝いたします。どうぞあなたの恵みに生き、イエス様の愛によって救われた者として、また信じて義とされた者として良い行いを感謝し、喜んで祈り続けることができますように導いて下さい。
あなたによって義と認められたことに心から感謝して、イエス様のお名前でお祈りします。 アーメン!