信仰生活
Scripture
コリント人への手紙 第一 9章16~19節
私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。
では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。
私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。
Observation
パウロとバルナバが献金を受けることに意義を唱える人たちがいた。そしてパウロは自分たちで生活費を整えて、福音宣教をしていた。本来なら福音宣教によって得る自分の権利を主張することもできたのですが、そうしなかったのです。
生活をサポートされたから福音を伝えるのではなく、されてもされなくても福音宣教の務めが任されているのです。
むしろ、無報酬で行うことや権利を用いないことで、誰に対しても自由であると宣言します。しかし同時にすべての人の奴隷となり、キリスト者としての律法は守りながらも、福音を伝えるために人々にあわせて福音を語っていくことが教えられました。
Application
3月15日からいろいろな事を行ってみて分かったことは、これは私のやりたいことではないと言うことが明確に分かってきたのです。0で動く人なのでやってみると、「あっ、ちがう」祈って行ってみれば良かったとなります。
昨日も2年ぶりに再会した人と話しながら「マサさんの礼拝は野外だよね。一番神様と一緒になっているときですよね。プログラムをしないなら、サロンを作ってそこで勉強会をしたら良いんじゃない、そこの会費で生活費をまかなえばいいよね」と言われたので、早速サロンができるようにしようとして作り出したら、HPがクローズしてしまった。
祈ってからはじめれば良かったと後になって思ったのです。復旧したので良かったのですが(^_^;
そして生活費のことで今日の御言葉でした。神様は愛なる方だなぁと思うのです。私がビジネスパスターにこだわったのは、この自由でした。団体からサポートを受けると、語らなければならないことが言えなかったりするからです。これは宣教師の育成の時にも思ったことでした。なので、できるだけ自立して宣教活動をしたいと願っています。今までもしていなかったわけではないのですが、トレーナーとかファシリテーターとかではなく牧師として語ることが重要だと思っています。
そして何かの営業をすることは今の自分のスタイルには合わないことが分かったので、ただイエス様の福音宣教のために語り続けていきたいと思っています。そのためにも、サロンができて、そこでの勉強会をしていきたいと願っています。行動コミュニケーション学は聖書からヒントを得ているので、それも取り入れながら話をしていきたいと願っています。
そしてパウロが語るように、福音を語ることは当たり前のことです。何の誇りにもなりません。このような者を救いに導いてくださっただけでなく、賜物を与え、主の働きのために鍛錬してくださり、任せてくださっているからです。
自分の力ではなく、聖霊の力によって福音は前進していきます。いつもイエス様に戻りつつも歩んで行きたいと願っています。
Prayer
天の父なる神様、あなたの御名を賛美します。
あなたの愛に感謝します。タイムリーな御言葉を与えてくださり、パウロが語ったように福音宣教で誇ることはないことを思わせて下り感謝します。また、この福音を伝えるために今まで培ってきたことを皆さまに分かち合うことができることに感謝します。聖霊の力によって多くの人たちに福音の素晴らしさを語ることができるように助けて下さい。
あなたの愛に感謝して、イエス様のお名前でお祈りします。 アーメン!